産 地
島根県能義郡広瀬市、安来市
特 徴
民芸的な手織絵絣の木綿織物。
山陰の三絵絣(弓ヶ浜絣、倉吉絣、広瀬絣)のひとつで、絵柄が精巧。また、かつて「広瀬の大柄、備後の中柄、久留米の小柄」という評判も得た。
紋様には松竹梅や鶴亀などのめでたい柄が多く、広瀬絣でつくった布団は、嫁入り布団とも、また、死に布団とも呼ばれた。花嫁が嫁入りをする際、広瀬絣でつくった布団を嫁入り道具のひとつとして持参し、初夜に床入りをすませたあと大切に保管して、天寿をまっとうするときにふたたびこれを用いる風習があったためである。
絣工程に、ほかには見られない「まかせ」という方法がとられている。
用 途
着尺地、夜具地、座布団地。
変 遷
広瀬絣は、医師の妻、長岡貞子が米子の弓ヶ浜絣の染色、製織の技術を習得し、広瀬で織ったことに始まるといわれる。これが江戸末期の文政年間(一八一八~一八三〇)のことで、その後、広瀬絣は松平藩の保護をうけて発展した。弘化年間(一八四四~一八四八)の前後には、藩お抱えの図案師が大柄の絵絣をデザインし、これが広瀬絣として広く知られるに至った。
明治時代には久留米絣と争うほど盛況で、明治三十年代には量産体制を整えるため、地機から高機へ、手引糸から紡績糸へと変更したが、大正四年の大火、大戦の勃発などで衰退した。
現在、技術保持者の天野氏により復興されつつある。