中国・四国地方
*おり*
- 産 地:
- 鳥取県倉吉市
- 特 徴:
- 太番手の綿糸を地藍で染めた経緯絣の木綿織物。
- 紗綾形、亀甲つなぎ、青海波、輪違い、麻の葉、松皮菱、菱に向い鶴などの有職紋様を織り込んだ絵絣で、厚手のものが多い。
- 用 途:
- 着尺地、夜具地、座布団地。
- 変 遷:
- 山陰の三絵絣(弓ヶ浜絣、倉吉絣、広瀬絣)の中では歴史がもっとも浅い絣といわれる。
- 倉吉絣は、久留米絣や弓ヶ浜絣の影響をうけて織りだされ、明治初期に行商人の手により各地に広まった。
- 初期の柄は経絣や縞絣だったが、明治二十年代から複雑な経緯絣柄が織られるようになった。
- 初めは農家の副業として織られていたが、やがて機業化し、明治後半から大正にかけてはさかんに生産された。その後衰退したが、近年、伝統の復興が試みられている。
*おり*
- 産 地:
- 鳥取県米子市、境港市、西伯郡淀江町
- 特 徴:
- 地綿を手引し、緯糸に種糸を用いて墨印をつけ、荒苧で手くびりして地藍で染める。緯糸だけで絣模様と絵模様を織りだすのが特徴。
- 鳥、花、扇面、人名など日常生活に密着したあらゆるものを織りだした、華やかな絵絣木綿織物。
- 浜絣ともいわれ、倉吉絣、広瀬絣とともに山陰の三絵絣のひとつである。
- 用 途:
- 着尺地、帯地、夜具地、座布団地、暖簾、壁掛け、テーブルセンターなど。
- 変 遷:
- 土壌が農作物に適さず綿の栽培に力をそそいでいたため、この地方は良質の伯州綿の産地だった。この伯州綿を用いた綿布は、江戸時代の明和年間(一七六四〜一七七二)、安永年間(一七七二〜一七八一)の頃には、大阪市場にまで送られていた。
- 江戸末期の文化年間(一八〇四〜一八一八)に絣の技術が伊予から伝わると、絣が織られるようになった。
- 大正時代まではさかんに生産されていたが、手間がかかり高価になってしまうため、現在は、伝統的な弓ヶ浜絣(手紡ぎ、正藍染、手織)はその伝統を維持するのみである。
- 紡績糸、化学染料、機械織による弓ヶ浜絣は織られているが、それでも生産量は年間一万反程度である。
*おり*
- 産 地:
- 島根県能義郡広瀬市、安来市
- 特 徴:
- 民芸的な手織絵絣の木綿織物。
- 山陰の三絵絣(弓ヶ浜絣、倉吉絣、広瀬絣)のひとつで、絵柄が精巧。また、かつて「広瀬の大柄、備後の中柄、久留米の小柄」という評判も得た。
- 紋様には松竹梅や鶴亀などのめでたい柄が多く、広瀬絣でつくった布団は、嫁入り布団とも、また、死に布団とも呼ばれた。花嫁が嫁入りをする際、広瀬絣でつくった布団を嫁入り道具のひとつとして持参し、初夜に床入りをすませたあと大切に保管して、天寿をまっとうするときにふたたびこれを用いる風習があったためである。
- 絣工程に、ほかには見られない「まかせ」という方法がとられている。
- 用 途:
- 着尺地、夜具地、座布団地。
- 変 遷:
- 広瀬絣は、医師の妻、長岡貞子が米子の弓ヶ浜絣の染色、製織の技術を習得し、広瀬で織ったことに始まるといわれる。これが江戸末期の文政年間(一八一八〜一八三〇)のことで、その後、広瀬絣は松平藩の保護をうけて発展した。弘化年間(一八四四〜一八四八)の前後には、藩お抱えの図案師が大柄の絵絣をデザインし、これが広瀬絣として広く知られるに至った。
- 明治時代には久留米絣と争うほど盛況で、明治三十年代には量産体制を整えるため、地機から高機へ、手引糸から紡績糸へと変更したが、大正四年の大火、大戦の勃発などで衰退した。
- 現在、技術保持者の天野氏により復興されつつある。
*おり*
- 産 地:
- 島根県広瀬市
- 特 徴:
- 経糸には麻糸や木綿糸を、緯糸には古布(絹布、綿布)を細く裂いたものを用いた再生織物。
- 古布の組み合わせにより、美しい縞柄が織りだされる。
- 厚地で丈夫なうえに防寒にも役立つ。
- 用 途:
- 仕事着、野良着、帯、テーブルセンター、小物類。
- 変 遷:
- 東北の北部や佐渡、あるいは山陰地方では、綿花が育たず貴重品だったため、このような再生織物が生産され、自家用の衣料として用いられてきた。
*そめ*
- 産 地:
- 島根県出雲市
- 特 徴:
- 出雲地方で、婚礼の際に伝統的に用いられる筒引き藍染風呂敷。
- 砧打ちした木綿生地の中央に生家の家紋、二隅あるいは四隅に鶴亀、松竹梅、宝尽しなどの瑞祥紋様を筒描き染したもの。二幅、三幅、四幅の三つ揃えの風呂敷もある。
- また、祝風呂敷を染める紺屋は表紺屋、糸を染める紺屋は糸紺屋と呼ばれた。
- 変 遷:
- 出雲地方で藍染が開始された時期は明らかではないが、木綿栽培がさかんになった江戸末期頃からだろうと推測される。ただし、この地方でとれる藍は良質ではなかったので、価格は阿波藍の十二分の一程度だったという。それでも、布を補強し虫を防ぐ効果のある藍染は、農山村の作業着としては重宝なものだった。
- そのためか、出雲では藍染は人の一生のさまざまな節目に顔をのぞかせる。嫁入り支度には筒引きの藍染布(祝風呂敷、油単、布団地など)を持参する風習があったし、また、子供の産湯の湯上げ、子背負い帯、節句ののぼりなどに使われる布はどれも、藍染であった。
- しかし、近年はそんな風習もすたれ、出雲藍染を伝承している染業者は、わずか二軒だけになった。
- 染色法:
- 染料には藍や草木を用いる。藍一色に染めるのが一般的だが、多色染のばあいには模様部分を顔料で染色する。
- 図案は、注文主の好みの色に染められる。
*おり*
- 産 地:
- 岡山県津山市
- 特 徴:
- 厚手の地風をもつ紺絣木綿織物。
- 小鼓、小扇など、弓ヶ浜調の素朴な絣模様と厚手の地風が特徴。
- 用 途:
- 日常のしゃれた着尺地。
- 変 遷:
- 明治以前は、自家用の木綿織物が織られる程度だった。明治中期になると、倉吉絣の技法をもとに絵絣の生産が始められたが、昭和になると衰退した。
- 昭和二六年に、織元である杉原博氏が地織絣の伝統を復興した。作州絣の名は、市場に出すためにそのときにつけられたものである。
*おり*
- 産 地:
- 広島県芦品郡新市町、府中市、福山市
- 特 徴:
- 井桁絣や絵絣の木綿織物。
- 用 途:
- 着尺地、座布団地。
- 変 遷:
- 古くから綿の栽培が行われていたこの地域は、同時にわが国屈指の綿の産地でもあった。
- 江戸時代には白木綿、浅葱木綿、縞木綿などが織られていた。とくに縞木綿は藩の保護をうけ、神辺縞または福山縞として広く全国に知られていた。
- 江戸末期の嘉永六(一八五三)年には富田久三郎が、竹の皮を用い手くくりで糸を染める井桁絣を織りだした。有地絣、谷迫絣と呼ばれたこれらの織物が、現在の備後絣のもとである。
- 文久元(一八六一)年頃から、輸入の紡績糸で織られるようになり、文久絣と名を変えて大阪方面に出荷された。
- 備後絣の名称となったのは明治初年のことである。この頃から備後絣は販路を拡大、同時に工程も機械化された。また、久留米の技法を導入して絵絣の生産も開始、昭和三五年頃には日本最大の絣産地となった。
- しかし、その後、絣の需要の減少とともに生産量も減少している。
*おり*
- 産 地:
- 香川県高松市
- 特 徴:
- 表面に凹凸のある、独特な風合いの木綿織物。
- 通気性、吸湿性がよく、肌触りがさらっとしている。浴衣地によい。
- 用 途:
- 着尺地、手拭い、暖簾、風呂敷、シーツなど。
- 変 遷:
- 保多織は、元禄五(一六九二)年に高松藩のお抱え織物師・北川伊兵衛常吉により考案された。常吉は高松藩主・松平頼重に、他藩産のもの以上の織物を創出せよという命をうけ、緯糸を浮かびあがらせた縮織に似た絹織物を完成、これが讃岐保多織となった。保多織は、その後、高松藩の幕府への献上品となり、その製法は一子相伝の秘法とされた。
- 明治維新後、伊兵衛常吉の子孫、北川勇次郎は製法を公開。さらに、原料を絹糸から綿糸に変えて、綿保多織を完成した。
- 第二次大戦中は物資統制令により生産を禁じられたが、昭和二六年頃には復活した。
- 現在では、わずか二機業場が、その伝統を守りながら織っている。
*そめ*
- 産 地:
- 香川県高松市
- *「特徴」「用途」については、千葉県銚子の「筒描染」を参照。
*おり*
- 産 地:
- 徳島県徳島市
- 特 徴:
- 布面にしぼのある、先染の木綿縮。経糸と緯糸の張力の不均衡を利用してしぼをつくり出す。
- 阿波藍のさわやかな色調と肌触りがここちよい。安価でもある。
- 用 途:
- 夏の着尺地、室内着用服地、小物類。
- 変 遷:
- 江戸中期から阿波地方に伝わる湛縞に改良、工夫を加えてできあがったのが、阿波しじらである。
- 湛縞は夏の着物用として各家庭で織られていた綿織物である。
- ある夏の日、海部ハナという人が、織りあがった湛縞を干しているところへにわか雨が降った。雨にあたった湛縞の表面には、こまかいしわができ、縮のようになった。これにヒントを得てハナが創出したのが、阿波しじらである。阿波しじらの名は、明治二年につけられた。
- 原糸を藍で染め、手織をした木綿縮の阿波しじらは、たちまち販路を拡大し、最盛期には二百万反の生産量を誇ったが、ほかの織物の進出や戦争の影響などにより、昭和一二年には生産が中止された。
- 昭和二六年には復活し年々増産されたが、昭和四八年以降は衣生活の変化により和服衣料としての需要が減少、実用性を失った。
- 現在、阿波しじらは県の重要無形文化財としての技術指定を受け、藍染による民芸織物としての位置を保っている。
- また、ハナは阿波しじらの発明により、明治一六年に農商務大臣・西郷従道(西郷隆盛の実弟)から発明功労賞を授与されている。
*おり*
- 産 地:
- 愛媛県松山市
- 特 徴:
- 先染平織の、紺絣木綿織物。
- 三大綿絣(久留米絣、備後絣、伊予絣)のひとつで、久留米絣よりもやや大衆的。
- 用 途:
- 着尺地、夜具地、暖簾、小物袋、テーブルクロス、エプロンなど。
- 変 遷:
- 江戸時代の享和年間(一八〇一〜一八〇四)に鍵谷カナにより創出された織物。当時は今出鹿摺と呼ばれた。
- 明治十年代から三十年代後半にかけ伊予絣の名で普及、大正時代には全国の絣織物の半分を占める盛況ぶりだった。昭和八年に動力織機の導入により生産量の増加を図ったが、第二次大戦中の綿花の制限などで衰退し、昭和二〇年に戦火をうけて全滅した。
- 昭和二四年に復興されると、低価格のため人気を得たが、三十年代に入り急激に衰退し、現在は昔の面影はない。
- なお、鍵谷カナがこの絣を思いついたきっかけについては、次の三つの説がある。
- (1)金毘羅参詣中に久留米絣を着た人を見かけて、考案した。
- (2)わら屋根のふき替え中に押し竹の縄目の縞に気がつき、それをヒントに考案した。
- (3)四国遍路の際、霊場に詣でるたびに糸束を他の糸でくくっておいたら、そこが白く残った。そのことからヒントを得て考案した。
- 以上のうち、もっとも有力なのは(2)の説である。
*おり*
- 産 地:
- 高知県香美郡香我美町
- 特 徴:
- やさしい感じの縞柄で、素朴な肌触りの織物。かつては赤岡縞、岸本縞とも呼ばれた。
- 用 途:
- 作業着、趣味の着尺地、夜具地。
- 変 遷:
- 土佐藩の奨励により、文化年間(一八〇四〜一八一八)の頃から綿花の栽培がさかんになり、赤岡縞、岸本縞が織られるようになった。
- 明治、大正時代を通しては普段着、野良着としての需要をもっていたが、現在は衣料としての需要はほとんどない。
- 土佐綿紬は、赤岡縞の伝統を残す民芸品として存在している。