関東地方


桐生お召し(きりゅうおめし)

*おり*


産 地:
群馬県桐生市
特 徴:
先練り、先染の高級絹織物。
お召しは粋と渋みをほどよく合わせもった上品な着物である。
からだに馴染んで裾さばきがよいが、湿気に弱いという欠点もあり、水に濡れると布地が縮む。
お召しとは、お召し縮緬の略語で、徳川十一代将軍・家斉が好んで着用(お召し)になったことから「お召し」と呼ばれるようになったという。
用 途:
着尺地。
変 遷:
桐生の織物の歴史は古く、古朝鮮文化の移入とともにもたらされたという。奈良時代初期に調として朝廷に納められた記録もある。また、桐生は「西の西陣、東の桐生」といわれるほど、古くから織物の町として有名だった。
江戸時代の享保五(一七二〇)年、当時の織物の最大産地である京都西陣が大火災のために焦土と化すと、大勢の職工たちが各地へと流れ、そのうちのふたりの職工、弥兵衛と吉兵衛が桐生に流れ着いた。彼らは高機と紋職技法を桐生にもたらし、その技術によって柳条縮緬が生産された。
明治に入ると、ジャガード機の導入や化学染料の使用などにより生産過程が近代化され、縫取りお召しや通風お召しなどの種類も生産された。昭和から大正にかけては、桐生お召しの全盛期であった。
現在桐生は和装だけでなく、洋装、輸出織物なども生産する総合織物産地として発展している。

伊勢崎銘仙(いせさきめいせん)

*おり*


産 地:
群馬県伊勢崎市
特 徴:
絹の風合いを活かした先染の平織物。
さまざまな絣糸の技法を用いて、単純な絣柄から精緻な絣模様までを手作業で織りだす。
用 途:
着尺地、夜具地、丹前地、座布団地。
変 遷:
養蚕地帯のため、古くから厚地で丈夫な太織が農家の婦女子により織られていた。屑繭で自家用として織られていた織物の商品化が進んだのは、江戸時代の後期、享保年間(一七一六〜一七三六)から文政年間(一八一八〜一八三〇)を通してのことで、柄中心の太織が伊勢崎の織物として広まった。
縞に絣糸を配した縞織は明治初年に生産が開始され、明治一二、三年頃から銘仙と呼ばれるようになった。
その後、筬台絣が発明され、板締め絣、解絣の技法導入により伊勢崎銘仙が銘仙業界をリードした。
現在では銘仙の名がほとんど用いられないため、消滅したかのように思われがちだが、実用的な絹織物として、別の名称で多くの人々に親しまれている。

中野絣(なかのがすり)

*おり*


産 地:
群馬県邑楽郡、館林市
特 徴:
板締め染色の手織白絣。
用 途:
男物の夏の着尺地。
変 遷:
幕末に木綿紺絣が織られ、明治の末には白絣が織られるようになった。

真岡木綿・益子木綿(もおかもめん・ましこもめん)

*おり*


産 地:
栃木県芳賀郡益子町
特 徴:
真岡木綿の伝統をうけ継いで植物染料の藍で染め、手紡ぎ、手織で仕上げる木綿織物。 先染の縞物と、白木綿を正藍で染めた型染がある。
藍以外の色も植物染をし、色染には紅花、茜、紫根、蘇枋を使用する。
用 途:
浴衣地、テーブルセンター、暖簾。
変 遷:
◆真岡木綿と益子木綿◆
益子から真岡にかけては綿の栽培地だったため、江戸後期から木綿が織られ真岡木綿として販売された。江戸時代を代表する白木綿であった。綿花は、鬼怒川から水戸のあいだで栽培されたものを用いた。
真岡を中心として、益子町から茨城県下館地方までの地域で織られ、それが真岡の木綿問屋に買い集められて、そこで晒されて全国各地に出荷されたため「真岡木綿」の名がある。
地理的に近い結城紬の影響をうけ、綿を手紡ぎ、手織したので、繊細で絹のような地合いの織物だったという。また、綿を紡ぐ際に「ブンブン」と呼ばれる糸車を使って細い手紡ぎ糸をとっていた。
江戸末期に全盛期を迎え、文化年間(一八〇四〜一八一八)の頃には一年間でおよそ四十万反を織りだしたという。
しかし、明治時代になって輸入紡績糸を用いた木綿織物が尾州地方で織られ始めると急速に衰退し、明治十四、五年には年間の生産量がわずか一万五千反にまで落ち込み、昭和初期にはまったく生産されなくなった。現在の益子木綿は、真岡木綿と藍染の伝統を守るために、二百年の歴史をもつ紺屋の日下田博氏が昭和三五年に始めたものである。
また、現在浴衣地などに用いられている「岡木綿」は、真岡木綿に似せてつくり出された機械織の木綿のことである。
染色法:
*藍は阿波藍や地藍を用い、石灰で藍建てする。
*色染には紅花、茜、紫根、蘇枋を使用する。

足利銘仙(あしかがめいせん)

*おり*


産 地:
栃木県足利市
特 徴:
先染織物の一種。綿銘仙、絹綿交織の文化銘仙で有名。
用 途:
着尺地、羽尺地、座布団地、丹前地。
変 遷:
足利地方では平安時代にすでに足利絹が生産され、室町時代には旗地として用いられていた。
明治から大正にかけては伊勢崎、秩父、八王子と並ぶ銘仙産地として繁栄した。とくに文化銘仙は人気があった。
現在足利では、銘仙に代わりトリコットの生産がさかんである。

結城紬(ゆうきつむぎ)

*おり*


産 地:
茨城県結城市
特 徴:
紬着尺地の最高峰で、国の重要無形文化財の指定をうけている。
真綿から手で紡いだ糸を絣柄になるように手くくりで染め、居座機で織った絹織物。こまかい十字絣で模様を表す。
着てあたたかく軽いうえに、丈夫でしわになりにくい。洗い張りをするたびに光沢を増すが、変色や脱色をすることがない。
「結城紬は寝間着で着てから外出するとよい」といわれるほどの紬の一級品。一反織るのに、無地物でも十日から十五日、こまかい絣柄だと一か月から一か月半かかるといわれている。
用 途:
着尺地。
変 遷:
平安時代には常陸(紬、太く粗い糸で織った織物の意味)、鎌倉時代には常陸紬として全国に知られていた。その後、幕府への献上品となり、慶長七(一六〇二)年、結城の地名をとって結城紬と改めた。また、信州上田から招いた職工から柳条の織法を得て、品質の改善に努めた。結城紬の生産は、江戸中期には農家の副業として定着した。
種類は初めは無地物と縞物だけだったが、慶応二(一八六六)年に縞絣が、明治六年には経緯紬が、そして大正初期には縮織りの紬が考案された。
*「筑波ねの 新桑まよの 衣あれど 君がみけしし あやに着ほしも」
〜万葉集東歌

石下紬(いしげつむぎ)

*おり*


産 地:
茨城県結城郡石下町、千代川村、水海道市
特 徴:
緯糸を綿で、経糸を絹で織った交織織物。
結城紬に似ているがシャッキリとした縮地ふうで、軽く着くずれしない。
用 途:
着尺地。
変 遷:
綿花や藍の栽培がさかんだった石下地方では、江戸時代から自家用の木綿織物が織られていた。
明治末期に綿と絹の交織が発明され、夏の単衣に向く石下紬が生産されるようになった。結城紬の姉妹品として定着し、初夏、初秋の外出着、普段着としての需要が多い。

谷和原木綿(やわらもめん)

*おり*


産 地:
茨城県筑波郡谷和原村
特 徴:
正藍染の縞木綿。
もとは紺無地の織物で農作業着として用いられていたが、北島正藍研究所により、現在は伝統的な藍唐桟縞を現代感覚で再現した着物になっている。
用 途:
着尺地。
変 遷:
野良着が藍染であるのは、藍の匂いと成分が虫除けにも化膿止めにも有効であるという理由による。綿の栽培がさかんだったこの地方では、各農家が自作の綿花を紡いで糸にし紺屋に藍染を依頼していたため、江戸末期には三百軒に二軒の割合で紺屋があったという。
谷和原の北島正藍研究所も、もとは伝統のある紺屋のひとつである。農村の衣生活の変化により廃業寸前に追い込まれたとき、勧めにより百本の藍瓶を公開、藍染愛好者に利用させることで研究所として復活した。
染色法:
*藍建て 地藍のすくもを土間に埋めた藍瓶に入れて行う。
*染色 藍汁に浸した糸を引き上げて絞り、風を通してまた浸す。濃い色を出すためには、これを十七、八回繰り返す。水洗いは、なかばで一度、最後に一度行う。色の濃さは、淡色から、瓶のぞき→水あさぎ→あさぎ→濃いあさぎ→納戸→下紺→中紺→上紺の順である。

銚子縮(ちょうしちぢみ)

*おり*


産 地:
千葉県銚子市
特 徴:
丈夫で、さらりとした肌ざわりの綿縮。先染の縞柄が特徴。
緯糸は、ふつうの五倍くらいの強さによられている。
用 途:
夏の着尺地。
変 遷:
綿縮は、綿の栽培がさかんになった江戸中期から明治にかけて各地で生産された。
銚子縮は、漁網用の綿糸から生まれた波崎縞が広まったものである。
その後、衰退し跡を絶っていたが、昭和二七年頃、常世田真次郎氏が復元し、現在は常世田商店のみで生産されている。

館山唐棧(たてやまとうざん)

*おり*


産 地:
千葉県館山市
特 徴:
細手の木綿糸を天然の草木で染めた縞柄模様の織物。
砧打ちをするので絹織物のような風合いと光沢をもっている。柄も粋で飽きのこないものが多い。
用 途:
着尺地、羽尺地、袴地。
変 遷:
インドのセント・トーマスから輸入されたので初めはサントメ(棧留)といわれたが、いつしか唐棧留と呼ぶようになった。
江戸中期には江戸を中心として、国産の木綿を用いた異国ふうの木綿織物が愛好された。これらの織物は階級、男女の別なく愛好され、各地で生産されたが、なかでも川越唐棧は名高かった。
館山の唐棧は、唐棧織の技法を学んだ斎藤茂助が明治二三年に館山市に移住し唐棧一筋に生きてから名をあげた。
現在では、唐棧の伝統技法を伝承しているのは、この斎藤家だけとなっている。
染色法:
染料には正藍、楊梅、椎の木の樹皮、五倍子、矢車附子、ゲレップなどを用いて、藍、茶、ねずみ、黄、水、赤、赤茶、黒味の赤などに染める。ただし、赤にだけは化学染料を用いる。
糸染後は天日でよく干し、機織してからぬるま湯に三十分ほど漬けて灰汁を抜く。
その後、石の上に敷いた紙の上に布をたたんで置き、木槌でたたいて砧打ちを行う。砧打ちを終えたら、湯通しして仕上げる。

筒描染(つつがきぞめ)

*そめ*


産 地:
千葉県銚子市、香川県高松市
特 徴:
素朴な糊防染法を用いた染の一種。
渋紙でつくった円錐形の筒に防染糊を入れ、絞りだしながら糊置きをし、染色するもの。
図柄は変化に富み、大胆で個性豊かな構図が多く、型紙では出ない線や輪郭が表現できる。
用 途:
布団地、暖簾、油單、大漁旗、万祝、祝風呂敷、鯉のぼり、宣伝用の幕など。
変 遷:
糊を防染剤に用いた染色には、型紙を用いる型染と糊で手描する筒描染がある。日本における筒描染の起源は、中国から琉球を経て伝わったとする北上説と、中国から朝鮮を経て伝わったとする南下説があるが、明らかではない。いずれにしても、日本では糊置き防染法を用いた加賀染、友禅染が起こったのが元禄時代(一六八八〜一七〇四)であるのに対し、琉球では室町末期にはすでに筒描染が行われていた。
筒描染は、船乗りの独特の風俗として商人たちの手により本土沿岸各地に伝わり、発達してきたといわれている。
染色法:
青花(ムラサキツユクサの花からとった汁)で下絵を描き、糯米と糠でつくった糊で筒描して染色をする。また、色糊で筒描染色も行う。
銚子の大漁旗は、数人の職人と数色の染料でダイナミックに染色される。絵柄部分も地部分も、染料を含ませた刷毛をたたきつけるようにして一気に引染が行われる。
かつては藍などの植物染料を用いていたが、現在は化学染料である。

正藍武州紺織(しょうあいぶしゅうこんおり)

*おり*


産 地:
埼玉県羽生市須影
特 徴:
経、緯糸ともに正藍で染める紺織物。計糸には紅殻(顔料の一種)用いるおともある。武州青縞ともいう。
用 途:
農作業着、足袋表、手甲、脚半など。
変 遷:
古くから木綿と藍の栽培がさかんな地域で、天明年間(一七八一〜一七八九)頃から生産されていた。当時は、紺屋が糸をかって賃機にだしていたが、現在では藍染めから製織までの一貫生産がおこなわれている。また、近代化により、藍瓶はタンクに代わり、正藍は割建て(植物と、化学藍の混合)にかわった。
染色法:
大型タンクに藍を建て、糸を何度となく藍水に浸して濃紺に染める。
用途によっては、経糸に紅殻をもみ込み、赤味のある藍にする。

秩父銘仙(ちちぶめいせん)

*おり*


産 地:
埼玉県秩父市
特 徴:
銘仙織物の草分け的存在の織物。
「染色堅牢、地質強靭」な実用的な絹織物。「鬼秩父」の異名もある。「絣製造装置」による解織である。
用 途:
着尺地、丹前地、夜具地。
変 遷:
秩父地方産の絹は、裏地として古くから広く用いられていた。
明治時代に銘仙が織られると、その実用性が珍重されて全国に広がったが、昭和に入ってからは実用性本位の織物の需要が衰え、秩父銘仙も衰退した。

村山大島紬(むらやまおおしまつむぎ)

*おり*


産 地:
東京都武蔵村山市
特 徴:
板締め染色と摺込捺染による絣糸で織った紬織物。
大島紬に似た風合いをもつ。価格が低く、柄も多様。
用 途:
着尺地。
変 遷:
村山地方では古くから綿や藍の栽培、そして養蚕がさかんに行われていた。紬や木綿も織られ、江戸末期から大正初期にかけては、木綿を原料とした村山紺絣が多く生産された。
時代が下り絹織物の需要が増えた大正八年には、伊勢崎から技術者を招いて大島銘仙を生産、さらに板締め絣の技術の導入によりこまかく精巧な絣柄をつくりだすことに成功、村山大島絣として販路を広げた。
村山地方は、綿織物の産地から絹織物の産地へと変貌を遂げ、それにともない名称を村山大島紬と変えた。

多摩結城(たまゆうき)

*おり*


産 地:
東京都八王子市、秋川市
特 徴:
八王子で生産される紋お召し。
高いしぼ立ちに独特の風合いのある渋さと豪華さをもった高級絹織物。
用 途:
女物着尺地。
変 遷:
八王子の織物の歴史は古く、およそ三百五十年前の文献に八王子市の織物として滝山紬、横山紬、紬島の名が見られる。また、江戸時代後期には、関東屈指の織物産地として発展した。
当初、八王子の織物はすべて男物だったが、大正時代に男の外出着として洋服が普及し和服の需要が減ったため、女物着尺地の開発に努め、昭和元年には全国で初めてジャガードの紋職機による絹セルお召しがつくられた。多摩結城の開発に成功したのは昭和四年で、これにより女物着尺地中心の織物産業地となり、現在に至っている。
昭和三十年代にウールと絹の交織ウールお召しがブームとなったが、近年は、正絹お召しとしての多摩結城が見直されている。

黄八丈(きはちじょう)

*おり*


産 地:
東京都八丈島八丈町
特 徴:
植物染の縦縞または格子縞の絹織物。黄色、鳶色、黒の三色に染めた糸を手織で織ったもの。それぞれの糸の濃淡や組み合わせで、多彩な縞柄や格子柄を織りだす。すべて手織で行われ、また例外なく草木染である。軽く丈夫で、艶がある。
黄色を主とする黄八丈、鳶(茶)色を主とする鳶八丈、黒の多い黒八丈の三種類があるが、これらを総称して黄八丈と呼ぶこともある。
用 途:
着尺地、はんてん地、丹前地、帯地、ネクタイなど。
変 遷:
平安時代には白生地の八丈絹が織られていた。室町時代には黄紬の名で貢物として、江戸時代には黄紬または八丈縞として年貢に用いられていた記録がある。
江戸中期頃までは大名家などの限られた人々しか着られなかったが、文化年間(一八〇四〜一八一八)、文政年間(一八一八〜一八三〇)の頃には一般化し、庶民にも愛された。江戸末期から明治初期にかけて大流行し、この頃から黄八丈と呼ばれるようになったという。
染色法:
染色に用いる植物はそれぞれ違い、黄八丈には八丈刈安を、鳶八丈にはマダミの樹皮を、黒八丈には椎の木の樹皮を用いる。
◆黄染(黄八丈)◆
*乾燥した刈安を四、五時間釜の中で煮て、その煎汁をとる。
*熱い煎汁に糸を一晩漬けておく。
*翌朝、煎汁を絞り天日で干す。
*この工程を十六回ほど繰り返したあと、椿と榊の灰汁に浸して媒染発色させる。
◆樺染(鳶八丈)◆
*こまかく削ったマダミの樹皮を六、七時間煮て煎汁をとる。このとき、煎汁から煎じかすの樹皮をとり除く。煎じかすの樹皮は乾燥して焼き、灰にしておく。これをヤキバイという。
*煎汁にヤキバイを入れてかき混ぜる。煎汁は泡立って赤くなる。
*煎汁を糸にかけ一晩置いておく。
*翌朝絞って天日に干す。
*この工程を十五回ほど繰り返したあと、灰汁漬けをする。
*灰汁漬けには、一定量の水に溶かしたいろりの灰を用いる。
*以上の工程をさらに数回行う。つまり、煎汁漬け六、七回→灰汁漬け、煎汁漬け四、五回→灰汁漬け、煎汁漬け一、二回→灰汁漬けと繰り返す。
◆黒染(黒八丈)◆
*乾燥した椎の木の樹皮を六、七時間煮て煎汁をつくる。
*黄染と同様に煎汁漬けを十五回ほど行ってから、沼漬けを行う。沼漬けとは、鉄分の多い泥水に糸を漬け、鉄媒染することである。
*糸が泥水を十分に吸収したら、よく水洗いをしてから天日乾燥を行う。
*このあと、同様の工程を繰り返す。すなわち、煎汁漬け五、六回→沼漬け、煎汁漬け一、二回→沼漬けと行い、発色させる。

江戸小紋(えどこもん)

*そめ*


産 地:
東京都葛飾区
特 徴:
型染染色の一種。
紋様が芥子粒のように繊細なために、遠くからは無地のように見える、一色濃淡の染物。
変 遷:
江戸小紋は、江戸時代の武士の正装であった裃の小紋柄から発達したといわれている。小紋は室町時代(一三三八〜一五七三)に武士の裃を染めることから始まり、江戸時代の寛永年間(一六二四〜一六四四)には裃の柄染として発達した。当時は小紋型、裃小紋と呼ばれ、各大名は藩を表す小紋柄を定めて占有した。しかし江戸も中期になると、一般庶民のあいだにも広まり男女の別なく愛用された。また、柄はよりこまやかに、そして多様になった。
江戸小紋がその名を得たのは昭和三〇年である。この年、小紋型染技法の伝承者である小宮康助氏を重要無形文化財に指定する際に、江戸小紋をほかの多彩色小紋と区別するために、江戸小紋の名がつけられたのである。
染色法:
工程は、型彫りと染に大別される。
●型彫り
型紙には、三重県鈴鹿市内で生産される伊勢崎型紙が用いられる。
*地紙 美濃(岐阜県)の手漉楮和紙を用いて「紙付け」をする。紙付けとは、和紙に柿渋を塗りながら紙を数枚、貼り重ねることである。このとき和紙は、タテ目、ヨコ目を交互に貼り合わせてゆく。
紙付け後は、柿渋の粘着力を増加させるために二、三日ねかせてから、天日に干す。その後、室枯らしや自然枯らしをして伸び縮みしない、水に強い生紙に仕上げる
*彫り 彫る模様や彫り方により、使用する地紙の枚数が変わる。多くのばあい七、八枚の地紙を用いる。重ねた地紙のうえに下絵を張り、彫ってゆく。彫り技法は、四種類に大別できる。
錐彫り…切口が半円形の細い錐をくるくると回しながら孔を彫っていく技法。鮫、亀甲、七宝などに用いられる。
突彫り…刀を垂直に立て、刀の柄を右頬にあて、左の指先で彫り口を加減しながら前へ前へと彫り進む技法。青海波、矢羽根、紗綾形などに用いる。
引彫り…上下に星目をつけ、鋼鉄の定規をあてて刀を手前に引きながら彫る技法。きまり筋、変り筋、養老、立涌などに用いられる。
道具彫り…紋様のかたちの切口をした彫刻刀を使って、地紙を垂直に突いて彫る技法。菱、菊、鱗などに用いられる。
*糸入れ 糸で型紙を補強することで、二枚の同じ柄の型紙を柿渋を塗って貼り合わせる際に、その合わせ目に細い絹糸を挟み込んで貼り合わせる。
●染
*引糊 長板(小紋染に用いる板)に生糊(糯米でつくった糊)を薄くむらなく塗り、天日でかわかす。かわいたら、ふたたび同じ作業を行う。この工程を何度か繰り返す。これを引糊という。
*地張り 引糊のかわいた長板に軽く水をさし、刷毛で伸ばす。生地に水を吹きながら、生地を長板に貼る。
*型付け 型紙を生地のうえに置き、防染糊をへらで塗る。へらは竹製のものを用い、竹の弾力を利用して型紙のこまかい部分まで糊を十分にのせる。
*地染 地色を混ぜた色糊を、へらで一気に引き伸ばして布面全体に塗り、地を染める。これを「しごき」という。しごき終えたら生地を長板からはがし、次の蒸しの工程で地糊がずれるのを防ぐためにおがくずをふりかけておく。
*蒸し 摂氏百度の蒸し箱の中で、およそ一時間蒸し、染料を発色、定着させる。
*水元 生地をさましてから水で糊を洗い落とす。
*湯のし よくかわかしてから、しわを伸ばす。
*地直し むらがあれば、むらになっている部分を筆で修正する。

長板中形(ながいたちゅうがた)

*そめ*


産 地:
東京都葛飾区
特 徴:
型染染色の一種。型付けに長板を使う藍染の木綿浴衣地。
大紋(大形)と小紋(中形)の中間の大きさの模様型を使用し、江戸時代から伝わる伝統技法で染める。
江戸中形、長板本染中形ともいう。
変 遷:
江戸中形は、江戸中期から伝承される手染加工技術である。江戸庶民の湯あがり着、夏の常用着である浴衣に用いられた。
しかし明治末期には浴衣の大部分が、化学染料を用いた注染中形(折付け中形、手拭い中形)や籠付け中形の方法で染められるようになり、江戸中形の需要は次第に減少した。
昭和に入りこの傾向がさらに強くなったため、官民の協力のもとに「東京特産長板中形有限会社」が設立され、江戸中形の伝統技術の保護にあたった。
昭和三〇年、江戸時代からの伝統技法で染める長板中形の技術保持者として松原定吉、清水幸太郎の両氏が重要無形文化財に指定され、その技術は今日までうけ継がれている。
染色法:
平織、縮、紅梅の木綿織物を染生地として、正藍で染める。
染の工程は次の通り。
*地張り 長板(モミの一枚板。長さ六五〇センチ、幅四五センチ)に姫糊を引く。糊がかわいたら、水を吸わせた刷毛で長板を湿らせ板先から生地一反(およそ一二メートル)の半分を張る。残りの生地は板尻にくくりつけておく。
*型付け 型紙を生地のうえにのせ、防染剤をへらで塗る。これを一反分、行う。表の型付けを終えたら生地を裏返して、同様に裏面も型付けをする。
このとき、表裏の柄がずれないように細心の注意を払う。
*豆汁引き 乾燥させ豆汁を引く。これが下染になる。
*本染 生地の片耳に伸子を張り、これを把手として藍瓶に静かに浸し、引き上げて空気に晒す。これを「風を切る」という。この作業を何回か繰り返して浸染をする。
*水元 水洗いをし、防染糊を完全に落として乾燥させる。